安房の教育者 野呂道庵の話

加地山神社にあった野呂道庵について検索してみると鋸南町報のアーカイブがありました。

どうも見てみるとリンク切れなどもあって、そのうち消えてしまうかもしれないので転載します。鋸南町のHPhttp://www.town.kyonan.chiba.jp/kyonan/)には鋸南町報のバックナンバーがPDFファイルでありますが、2013年からしかありません。

今回の記事は94年のものですが、こういう資料があるのはありがたいです。鋸南町のHP上では検索掛けても出てこないリンクです。

http://archive.fo/C2u2

============ 引用ここから ==============
1994年2月号

○江戸の下谷の天才少年

 幕末から明治にかけて、勝山藩文学教師として若者の教育に身を捧げた儒学者、野呂道庵は、まさに教育者の鏡のような人物だったそうです。

 道庵は、文化10年(1813)江戸下谷長者町に生まれました。幼名は駿太郎、長じて俊、俊臣、民父などど称しました。

 父は江戸の儒学の大家亀田鵬斎の高弟、野呂省吾(陶斎)で、道庵も父の才を受け縦ぎ幼い頃よりその天才ぶりを発揮、すでに11歳にして駒込で吉祥寺の僧たちや越後の医生を教えるほどの学才を備え、14歳の頃には備前新田の藩主、池田信濃守政善に請われて浅草鳥越町の藩邸に講義に出向いたりしました。

 学才だけでなく体勇ともに備わった人物で、16歳の時父の留守中、母親を脅した夜盗に斬りつけ、まさに首をはねんとしたところ、母のいさめで命を助け逃がしてやったという逸話さえあります。

 道庵の名声は日に日に高まり、天保3年(1832)20歳の時、下谷徒士町に開いた家塾「明善館」には入門者が殺到、同じ徒士町に藩邸のあった伊予大洲藩主加藤遠江守泰幹は、藩士と共に受講しています。また下谷広小路に藩邸のあった安房勝山藩士の入門者も多く、請われて藩邸にも講義に出向きました。


○道鹿、勝山蒲へ

 万延元年(1860)勝山藩主8代酒井安芸忠一が没し、わずか3歳の嫡子忠美が藩主となりました。この時、道庵は忠美の教導役として御近習格儒者に召し抱えられ、高7人扶持、教授料銀5枚の待遇で藩士の一員に加えられることとなったのです。

 慶応4年(1868)維新動乱の中、官軍東下に伴う江戸の兵火をさけ、道庵一家は安房勝山に移住してきました。

 勝山での道庵の住居は現在の下佐久間3596あたりで以前は加藤玄通という医者の家だったものを借りました。

 そのうち江戸も鎮静し、藩士もぞくぞく勝山へ帰ってきて、再び道庵に学ぶようになったので、勝山藩は明治元年10月、藩校「育英館」を創立し、道庵を文学教師に任命しました。

 道庵、56歳の時です。
         (続く)
                                       


○育英館にみる道庵の教育理念

 勝山藩藩校「育英館」は明治2年(1869)の版籍奉還により一時閉校しましたが講義は続けられ、その後、学校存置の令により、明治4年正月、再び開校します。

 この時、道俺はのちの学校制度の指針ともなる8項目からなる「学校攷」(内題「加知山藩学制私議」)を建議しました。この中で道庵は、学校は人材教育の場所であり根本であること、学制の根本は人材を選んで任じることにあることを力説しています。

 「育英館」 の校舎は藩邸内にあった旧代官所をあてて、生徒は8歳以上、士族はもちろん平民の子弟にも入学を許可、学科は漢学を主とし、あわせて習字も教えました。授業は毎朝辰刻 (8時) から午刻 (12時) までで、毎月1日と15日を休日とし、試験は春秋2回、藩主以下教職員みな臨席して、読試、講試などを行い成績にしたがって賞を与えました。授業料も謝礼もとらず、経費は藩の財政から支出していました。これらの制度は、ほとんど道庵の計画によるものなのです。

 ところが、同年7月の廃藩置県によりわずか半年で「育英館」は、またも閉校へと追いやられてしまいました。


○受け批がれる道庵の意志

 藩校廃止とともに道俺もその職を解かれましたが、その後も中等程度の学校の必要性を痛感した道庵は、明治7年自宅に「明善塾」を開き、多くの近村の青少年たちの教育に尽力しました。

 明治15年、70歳の時、門人たちの発起により加知山神社に道庵を讃える寿蔵碑が建てられました。そして明治22年2月22日、道庵は77歳で没しました。葬儀は明善塾で行われ、下佐久間天寧寺に葬られました。

 道席の門人は、いずれも政治、教育、実業など各方面で活躍しましたが、中でも道庵の学をもっとも継承したのは早川儀之助です。

 市井原生まれの儀之助は、明善塾塾頭として道庵を助け道庵の死後、明善塾は閉鎖されましたが、儀之助は市井原の自宅において授業を引き継ぎました。その後、儀之助は保田町長や県会議員を勤め、大正11年、64歳で没しています。




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この記事へのコメント

野呂隆房
2019年09月25日 16:51
掲載ありがとうございます。野呂道庵(俊臣)は野呂家の系図によれば、36世で私の曾祖父です。
そうせい
2019年09月25日 22:59
コメントありがとうございます!!
加知山神社の顕彰碑から興味を持ったのですが、まさか子孫の方からコメントを頂けるとは思いませんでした。
野呂家36世という、そこまでしっかり系図が残っているというのは素晴らしいです。

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