鋸南町の戦争~本土決戦と南房総③~

前回までに本土決戦に備えた東京湾兵団の防衛計画を見てきました。

南房総一帯を守備する東京湾兵団館山を中心とした防御態勢を構築していましたので、鋸南町は兵団の後方基地といった位置にあります。

実際、東京湾兵団の補給計画では食料品は勝山から各地に輸送され、医療品については館山に直接輸送する計画でした。

勝山が補給基地となったのは内房に位置する天然の良港であることが大きいのでしょう。

既にこの時期は本土周辺にも米軍の潜水艦が出没し、頻繁な艦載機の空襲もあって、外洋に面する館山への海上輸送は危険と判断されたのかもしれません。
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こちらは東京湾兵団の各部隊の配置と兵団への補給線を描いたものです。

既に房総の鉄道網については戦前の観光ブームに関する記事で一度まとめていますが、昭和10年頃までに現在の内房線は開通しており、黄緑で示した内房線の線路は使用可能でした。

勝山に陸揚げされた補給物資はこの鉄道網を使って館山、千倉、鴨川へ運ばれたのだと思います

仮に鉄道が寸断されたとしても、本土決戦に備えて木更津から海岸線沿いに館山まで伸びる現在の国道127号線が突貫工事の末に拡張されているので、陸路での交通は確保されていました。
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国道127号線には今も、この時期に作られたトンネルが多数存在しており、現役で活躍しています。クルマの大きさも交流量も当時とは比較にならない程増加した現代では、これらのトンネルは幅が狭く、トラックなどが通るときには対向車が結構怖い思いをするのです


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兵団の後方策源地となったことも影響したのでしょうが、軍の野戦病院も開設されます。鋸南町報の「鋸南町の知られざる戦時下の実態」によると三芳の稲都に300人、平群に200人、保田に500人収容の病院を設置する構想だったとのこと。

保田第六天様近くにあった墨田高等工業学校臨界寮を接収したとのことですので、大六海岸沿いだと思います。


もう一つ、日本軍部隊が町内の各地に滞在して陣地構築を行っている時期に、松音楼慰安所を設置する話が出てきたと言うエピソードが語られています。

保田町の戸田治助町長は悩んだ末「今までずっと国のためだと全てに協力してきたが、このことについては受け入れることはできない」と拒否。町民はこのことを後で聞いて、その見識の深さと英断を褒め称えたとのことです。



鋸南町に駐留した日本軍部隊は昭和20年2月頃から3000人を超えるそうで、特に岩井袋はあらゆる民家、集会所に宿泊したとのこと。

陸軍部隊は金谷支隊が1個中隊ほどですが、岩井袋は海軍の特攻艇「震洋」の基地となったことから、格納庫や基地施設の整備が急ピッチで行われたようです。

鋸南町の人口は勝山、保田が各5000人程度、佐久間が3000人程度でしたので、そこに一気に3000人が加われば色々混乱もあったのだと思います。


鋸南町の主な部隊は陸軍の幡部隊(勝山・保田・佐久間:金谷支隊の一部か)、墳進砲隊(勝山:ロケット砲のこと)、暁部隊と輜重隊(保田)。

海軍では嵐部隊(勝山)と野戦病院(保田:前出)、通信隊(勝山)等でした。

軍の施設としては東京湾要塞の一部である金谷砲台の他、鋸山山頂に昭和18年から高射砲、機関砲、探照灯(サーチライト)、聴音器、電波探知機(レーダー)などが設置されます。
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浮島には開戦前の昭和15年頃から監視所が設置され、レーダーや通信施設などがあったそうです。
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鱚が浦を臨む亀ヶ崎の真珠島には機関砲を備え付けて敵の上陸に備えたとのこと。近くに常駐していた水陸両用戦車隊と連携して訓練を実施していたそうです。


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