鋸南町の形成 古代編

古代(4世紀頃)、房総半島は「総(ふさ)の国」と呼ばれていました。後の安房国では内房側が阿波の国造(くにのみやつこ)、外房側が長狭の国造により治められていました。
530年頃、総の国上総下総に分かれることになります。

大化の改新から律令国家が形成されていくに従い、全国が国、郡、郷に分けて統治される体制となっていきます。
安房国.png
718年、上総国から4郡が分かれて安房国が成立。安房国成立から7年後の725年に鋸山の日本寺が行基によって創建されました。

741年に安房国は上総国に合併されるものの、757年に再度分離して安房国が復活。以後、明治維新までこの地域は安房国として続いて行くことになります。

安房国は4郡で構成され、現在の館山市を中心とする安房郡、鋸南町から南房総市の内房側(旧富山町、旧富浦町、旧三芳村、館山市の一部)の平群郡、白浜、丸山、和田など外房側の朝夷郡、鴨川市を中心とする長狭郡となります。

前近代の行政単位は地形によるところが大きく、中世に形成される武士団もこの郡を基本に考えると分かり易くなります。
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鋸南町1.png
鋸南町が所属したのは安房4郡のうちの平群郡になります。平群郡には現在の館山市船形から南房総市三芳にかけての群房荘、富浦付近に多田良荘の2つの荘園があり、郡内は砥河、余戸、達良、石井、狭隈、長門、大里、穂田、川上、白浜の10郷に分かれていました。

鋸南町に関連するのは石井郷(=岩井)、狭隈郷(=佐久間)、穂田郷(=保田)、白浜郷(=吉浜)となります。石井郷には岩井袋が含まれていました。
白浜郷は別の場所を指すという説もあります

現在はざっくり勝山と保田に分かれるイメージですが、吉浜と保田が一緒ではなく、勝山ではなく佐久間が中心というのが面白いですね。地形的には確かに山に分断されて保田の平野部とはちょっと違った雰囲気があるのも事実です。

保田川による土砂の堆積があって、現在よりはるか奥深くに海岸線があったと思われます。現在の保田神社周辺の小字には海辺を示すような地名が多く残っているのがその証拠。

保田と吉浜は隣同士の現在ですが、かつては険しい山に隔てられていたのかもしれません。


下佐久間田子台は山部赤人が「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける」の名歌を詠んだ場所という説があります。

その正否はともかく、現在は台地になっている田子台が、万葉集成立当時は田子の浦という海辺の集落だったということが分かります。

田子台には縄文時代の集落の遺跡もあり、おそらく佐久間川の土砂が堆積して下佐久間の平野部が時間をかけて形成されていったのでしょう。そうなると律令時代の勝山は海の下ということになります。

竜島も地名に「島」の字がありますので、その時代は本当に島だったのかもしれません。浅間山から神明神社に掛けて伸びる尾根に竜の姿を見たのかも・・・

源頼朝が上陸した当時、竜島には18軒の家があったと伝わります。小さな集落でまだ村として自立していたかどうか怪しいくらいの規模です。

頼朝に馬を献上した江月も一体どれだけ人が住んでいたのか。市井原は負傷して頼朝軍から脱落した武士の末裔という人々が現在も暮らしており、大崩の八雲神社は平安時代に創建されているので、小さいながらも人は住んでいたのでしょう。

いずれにしても、ここから勝山、岩井袋、竜島、下佐久間、中佐久間、上佐久間、奥山、大崩、大六、吉浜、江月、大帷子、本郷、元名、小保田、市井原、横根の17の村が江戸時代までに拡大/発展していくことになるのです。

鋸南町は現在、台風15号により町全体が大きな被害を受けています。
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ふるさと納税:令和元年台風15号 千葉県鋸南町



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