鋸南町の形成 近代編②

前回は近代編と言いつつ明治を迎えられませんでした。。今回は明治維新以降の鋸南町の歴史を辿ります。

明治維新によって徳川幕府は260年の歴史に幕を下ろしました。旧幕府軍の一翼を担った遊撃隊に加わった勝山藩でしたが、藩士の切腹によって取潰しを免れ、1万2000石の領地は安堵されます。

一方、400万石という巨大な領地を持っていた徳川家は70万石に削られ、駿河・遠江に移動することになりました。これに伴い、幕府直轄の天領や直参の旗本領は全て新政府が召し上げとなります。
新政府の治める地域には新たに県が設置され、房総半島に於いては安房、上総の天領・旗本領37万石を管理する宮谷(みやざく)県が誕生しました。
鋸南町①.png
この時点で現在の鋸南町には勝山、岩井袋を治める勝山藩と、市井原、横根、大崩、奥山、佐久間中村(上佐久間)を治める前橋藩の飛び地、そして旧天領/旗本領を治める宮谷県の3つが混在していたことになります。
このうち市井原を除く前橋藩領は領地替えによって三河の西尾藩に与えられ、市井原は宮谷県に所属します。

さらに徳川家の駿河・遠江入国に伴い、この地方を領地としていた駿河田中藩4万石の田中家が4万石で安房に移り、白浜のちに北条に陣屋を構えて明治元年7月に長尾藩が成立しました。鋸南町内で宮谷県の管轄になっていた各村は長尾藩の新たな領地となります。これが明治元年の9月ですが、1か月後には10月には勝山藩が西尾藩領を除く町内を領地とします。

幕府崩壊による国内の統治システムが大混乱している状況が目に見えるようです。ハッキリ言って意味不明、この状態で近代化政策をおこなっても地方政治がまともに機能しないのは明らかです。

明治2年になると版籍奉還が行われ、勝山藩でも藩主が参内して奉還し、改めて知事に任命されます。
ちなみにこの時、勝山藩は加知山藩へと改称しています。これは越前と美作にも同名の勝山藩が存在することからの改称で、江戸時代でも加知山の字を使う場合もあったということで、この名前に代わりました

版籍奉還から2年後、廃藩置県が行われ、加知山藩が廃止されて加知山県が設置されます。旧藩主は東京で生活が保障され、地域の統治は中央から任命された知事が実施するという画期的な出来事で(といっても知事は任命されなかった・・・)、200年に渡って続いた酒井氏による勝山藩はその歴史に幕を下ろしました

これが明治4年の7月の出来事です。この年の11月には加知山県が僅か4ヶ月で廃止となり、安房、上総を管轄する木更津県となったことでモザイク状の統治体制が漸く統一されます。後に木更津県は明治6年に下総を管轄する印旛県と合併し、現在の千葉県が誕生することとなります。
安房国.png
明治政府は全国の県を整理した後、地方の政治体制の整備に乗り出しました。その際に導入されたのが大区小区制です。設立されたばかりの木更津県では安房国のうち平郡と安房郡を第一大区、朝夷郡と長狭郡を第二大区としました。現在の鋸南町は平郡にあって第一大区に入り、岩井袋を除く16ヵ村は十三小区に所属しました。(岩井袋は岩井地区の村々と共に十四小区に所属)

明治6年の千葉県設置に伴い番号が振り直されて岩井袋を除く16ヵ村は第七小区、岩井袋は第六小区に入ります。

大区は戸数1万戸、小区は1300~700戸の規模になるように設置されていました。江戸時代以来の村々は住民の自治が行われていましたが、近代国家というものは住民生活に大きく介入してきます。戸籍、税金、教育、兵役、選挙、社会福祉といった事務処理をきちんと回すためにはある程度の規模というものがどうしても必要になってきます。

その面で言えば大区小区制というのは良い制度なのですが、何百年間も1つの村内で完結していた地方政治が突然こんな規模に格上げされてしまっては、当然混乱します

何度か制度改正も行われ、小区の戸長は選挙によって選ばれるなど、国民に民主主義というものを練習させる、将来国政で選挙による政党政治を行うための第一歩という意味もあったのですが、なかなか上手くいきませんでした。

ご領主様ならともかく、何が悲しくて縁もゆかりもない村の人間のいうことを聞かないといけないのか」みたいな思いがあっては、中央政府の施策が末端で無視されて空回りするという事態になりかねません。

明治11年になって大区小区制は廃止され、江戸時代以来の村を単位とした郡区町村制に代わりました。

規模の小さな村は近くの村と組合を結成して地方政治を行えるだけの規模まで何とか持っていきます。これらの組合村は鋸南町内においては(加知山、岩井袋)(竜島、下佐久間)(吉浜、大六)(本郷、元名)(大帷子、小保田、江月)(市井原、横根、大崩、奥山)(佐久間中村(上佐久間)、佐久間下村(中佐久間)、奥山)の7つが成立しました。

地域住民の連帯感、実情に配慮した形になったものの、こうなったらなったで行政単位が小さくなったために、今度は選挙をやっても適当な立候補者が見つからなかったりして、やっぱり全国的に混乱しました。

日本全体では住民0人の名前だけの村が801、戸数が10軒以下の村が2839、100軒以下の村は全体の7割を占めていたというので、これだけ小さな村を出来るだけ無理のない形で統合して、何とか形にしようと四苦八苦したのが明治の地方制度といえるでしょう。

鋸南町②.png
地方制度は更に改革を進め、明治22年の市町村制の施行によって各組合村が合併してようやく勝山村、保田村、佐久間村という戦前の鋸南町の単位に落ち着くことになります。

それでも、この単位に人々が満足していたわけではないらしく、保田村の合併に関する答申書にはこんな記述がありました。
此の村々は孰れも資力不充分にして、独立自治の目的を達するを得ざるに付、今其地形民情に従ひ、之を合併して有力の一村たらしめんとす。
(中略)
此村々は多少優劣なきにあらずと雖も、民情旧村名の内其一を存するを欲さず。又之を参互折衷せんとするも、九ヵ村の多き選択に便ならず。往古此村々を保田の庄と称せしと云ひ、今尚沿海の地を保田浦と総称し、最も著名なるを以て、今其名に従ひ本名を附す


村意識はちっとも抜けず、中心と呼べるような地域も無いので歴史的に呼ばれていた保田の名前を使ったとのこと。ちなみに佐久間村の成立も同じ理由ような過程を辿りました。

保田における各村は江戸時代、天領・旗本領が入り乱れ統一感が全くなく、鋸南町史はこのように記しています。
しかし、三百年の伝統と、幕府によるモザイク式統治の弊はなお強く、ややもすれば自区の利害に固執して、真の一本化は大正半ば頃までかかったのである。(中略)この事は、保田首長の在任期間が短かった事からも推察し得よう。


一方、勝山村についてはこの通りで、やはり藩という規模が小さくても統一的な権力が存在していたところというのは住民の意識もまとまり易かったようです。
此村々の内加知山村は元藩庁のありし処にして(中略)勝山の称世間に顕はるるを以て、今其旧名に従ひ本名を附す。


明治時代中頃から海水浴が行われ観光客が訪れるようになると、保田、勝山は観光業が盛んになり、農業漁業以外に町の新たな産業が発展していきます。大正6年になると鉄道が開通して観光客がいよいよ増加していくことになりました。

そして戦後、いよいよ鋸南町の成立となるのですが、長くなったので続きは次回とします。

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