鋸南町の形成 近代編③

鋸南町②.png
前回は明治22年の市町村制の施行によって勝山村、保田村、佐久間村が成立したところまで進みました。
その後、海水浴という観光業が誕生したことによって勝山、保田は村から町へと発展します。

勝山藩のあった勝山町と、前橋藩の飛び地としてある程度まとめられていた佐久間村はいいとして、徳川時代に天領と旗本領が入り乱れた保田では、大正半ばまで各村の対立があって地方政治が安定しませんでした。保田町として9ヵ村が1つになるまで30年以上かかったということになります。この辺の経緯は鋸南町史に述べられている通りです。

しかし、三百年の伝統と、幕府によるモザイク式統治の弊はなお強く、ややもすれば自区の利害に固執して、真の一本化は大正半ば頃までかかったのである。(中略)この事は、保田首長の在任期間が短かった事からも推察し得よう。

地政学という学問があります。国家の性格と地理条件との関係を解き明かすもので、侵略国家の理論だと言われたために日本では専門家が殆どいないのですが、鋸南町の性格を考える時に私は地政学の知識が頭に浮かんでくるのです。

地政学では山間部や島嶼部では広い土地が無いために、統一的な権力が生まれず、分権的な国家になると言われています。広い大陸の国家である中国やフランス、ドイツ、ロシアなどは強力で独裁的な中央集権国家、イギリスやスイス、マレーシア、古代アテネなどは拠点同士を交易路で結ぶ分権国家です。

これを鋸南町に当てはめると、平野部が狭くて険しい山や岬に隔てられており、どう考えても統一的な権力が生まれません独立心が旺盛な小さな村の連合体が鋸南町の本質で、住民の意識も隣の地区に行くのに山を超えて行くとなると、連帯感がどうしても生まれにくいのです。

初期の保田町は、例えて言うならシリアや旧ユーゴのような多民族国家に近い状態だったのだろうなあと思います。
房総_1945.png
保田に限らず、南房総という地理的環境は低くても険しい山々と僅かな平地が入り組んでおり、この地域の特色となっています。これが戦後、鋸南町が誕生する際に多いに揉める根本的な原因であり、平成の大合併南房総市鋸南町が合流できなかった原因でもあります。

という訳で、ここからは鋸南町誕生に至るドタバタをトレースしていきます。上図はコチラのサイトに記載されていた終戦時の南房総地域の地図です。

黄色が「市」、緑色が「町」、水色が「村」となっています。内房地域では海水浴で栄えた保田、勝山、岩井、富浦が町制、館山が市制となっています。

終戦とそれにづづくGHQによる占領で地方にも民主化政策が行われていきます。政治学の大学の授業内容ですが、昭和24年のシャウプ勧告をきっかけとして、地方自治をやる為の財政力向上を目的とした町村合併が大々的に行われることになりました。

この時点で全国の町村は1万200、人口5000人以下の町村が全体の66%となっていました。明治維新の時の全国の町村は7万1314なので、よくここまでまとめたものだと思いますが、ここから人口1万5000人程度を基準にした合併が推進されていきます。
房総_1945_合併案.png
旧平群郡に存在している10ヵ町村の内、稲都、国府、滝田の3村が合併して三芳村となりました。これに富浦・八束・鋸南5ヵ町村を加えて大同団結する案が1つ。

もしくは館山市に全部合流する案が1つ、鋸南5ヵ町村に富浦・八束を加えた7ヵ町村が合流するという案なども検討されました。

昭和28年、いろいろ検討した末に「鋸南5ヵ町村」「富浦・八束」「三芳」の3つに分かれて合併することとなりました。

昭和30年に富浦町八束村が合併して新富浦町が成立、既に三芳村は昭和28年に成立しており、残すは鋸南5ヵ町村ですが、これがまた揉めます。

この時点で鋸南5ヵ町村は人口2万6209人、しかし保田町、勝山町、岩井町ともに同じような規模で突出した中心というものがありません

この中から岩井町平群村が合併して富山町が成立して合併構想から離脱。

保田町は町としての自主性を失うことを怖れて金谷村との合併して保金町構想を検討し始めます。

そこで勝山町はまず佐久間村との合併に踏み出します。佐久間村では当初案の大域合併を望む声があり、大崩・奥山でも反対論があったものの、奥地開発を行うことを条件に合意を取り付け、新勝山町が昭和30年に誕生しました。

保田町の推進した保金町構想ですが、天羽郡4ヵ町村の合併構想が具体化してきたために、断念となりました。

房総_1955.png
この昭和30年の時点の南房総地域の地図はこのようになっていました。

保田町がどことも合併することなく孤立状態になってしまったので、県の斡旋で第二弾の合併協議が始まります。ここに加わったのは鋸南3町(保田・勝山・富山)でした。

3町の合併は概ね住民も歓迎していましたが、1年かけて3町で協議を行った結果、富山町は庁舎の位置が富山以外になることを受け入れられずに合併協議から離脱しました。

残る勝山町保田町で協議が継続しましたが、庁舎の位置と町名でやはり揉めます。最終的に保田町が庁舎の位置で譲歩し、代わりに町名を「保田町」「保田勝山町」とするように要望

もともと保田町は人口7000人もあるので、別に合併しなくてもいいんじゃないかという話も出たりしていました。町の中央部の商工業者は合併反対、その他の地区は賛成で、特に大六地区が積極的だったそうです。

鋸南町史に「保田村設置以来の大論戦」と記され、その様子をこのように述べています。

基本的決議を行わんとする頃には、両論一段と激しく、中道地区の青年経済研究会は反対の陳情書を、大六地区の区民一同は賛成の陳情書を提出、さらに分村合併の陳情書を、勝山町長に提出するに至った。なかには過激な行動をなす者もあり、一部消防団員辞任の事態にまで発展した


このように大揉めに揉めた合併協議は町内有志、旧町長らによる調停出身代議士による斡旋まで行った末に、勝山に庁舎を置き、新町名を鋸南町とする現在の形で決着しました。

住民の利便を考慮して旧保田町役場の庁舎に極力多くの事務を移譲することが決議に明記されており、町議会議員は旧勝山地区10名、旧佐久間地区4名、旧保田地区12名で保田に配慮した形になっています。

千葉県知事に提出された合併申請書には昭和30年の鋸南5ヵ町村合併構想が「いずれも将来大同団結が行われることを期待し、機の熟することを熱望し、(中略)大合併に対する第一段階として」鋸南町の誕生となったと合併に関する経緯を述べています。

鋸南町と富山町の合併構想は約50年後の平成の大合併で再び浮上しますが、ここでも大揉めに揉めた末に、南房総市の誕生に鋸南町が加われないという結果になるのは、この地域で広域の地方政治を行うことの難しさをつくづく物語るものだなあと思います。

誕生した鋸南町では、町民誰もが知っている平田町長による大規模開発が行われていきますが、大盤振る舞いして町の財政が傾いたのは、揉めに揉めた合併の遺恨を残さないという政治的な背景があったのかもしれません。

本当なら平田町長の事績についても調べてみたいのですが、詳しく書かれている鋸南町史 現代編が手元にないので、コロナの自粛が終わった後で公民館の図書室で調べてからにしたいと思います。

鋸南町は現在、台風15号により町全体が大きな被害を受けています。
下記にて義捐金の受付を行っていますので、皆様のご支援をお願い致します!!

ふるさと納税:令和元年台風15号 千葉県鋸南町



ランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。

人気ブログランキング
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 千葉 その他の街情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

aki
2020年06月10日 18:13
憲法改正を急ぐ理由を知って下さい
管理人様、お邪魔致します。
改憲の議論が進まぬ中、中国が連日 日本の領海侵犯を強化し、尖閣奪取を狙っている現状を、中国に侵略されたチベットや、今の香港等の姿と重ねて多くの皆様に今どうか知って頂きたく思い、恐れながら書き込ませて頂きました。

戦後日本を弱体化させる為、アメリカが作成した日本国憲法施行後、韓国が竹島を不法占拠し、その際日本の漁船を機関銃で襲撃し、多くの船員が死傷しました。

北朝鮮は国民を拉致し、日本全土を射程に入れるミサイルを数百発配備しており、尖閣には連日中国艦艇が侵犯する現状でも、憲法の縛りで日本は国を守る為の手出しが何一つ出来ません。

現在まで自衛隊と米軍の前に、中国や北朝鮮の侵攻は抑えられて来ましたが、米軍がいつまでも守ってくれる保証は無く、
時の政権により米軍が撤退してしまえば、攻撃されても憲法により敵基地攻撃能力が無い自衛隊のみでは、
日本はチベットと同じ道を辿りかねません。

9条の様に非武装中立を宣言しても、平和的で軍事力の低かったチベットウイグルを武力で侵略虐殺し、現在進行形で覇権拡大を行い「日本の領海を力で取る」と明言している中国や

核ミサイルで日本を狙う北朝鮮、内部工作を行う韓国が沖縄尖閣等から侵略の触手を進めているからこそ、GHQの画策により戦う手足をもがれた現憲法を改正し、
自立した戦力と抑止力を持たなければ国民の命と領土は守れないという事を
中韓側に立ち国民を煽動する野党やメディアの姿と共に 一人でも多くの方に知って頂きたいと切に思い貼らせて頂きます。
https://pachitou.com
長文、大変申し訳ありません。