テーマ:歴史:近代

被災地鋸南町:大破した大正庵

以前に大六海岸前にある大正庵という古民家についてご紹介しました。被災後の状況は記事にしなければと思っていたのですが、なかなかそこまでの余裕が無くて遅れてしまいました。 写真は被災1週間後の大六漁港の様子です。電信柱がすっかり折れてしまっています。この大六漁港の前に大正庵があります。 被災前後の大正庵の様子です。木造平…
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大正6年の東京湾台風と鋸南町

令和元年の台風15号は鋸南町を中心にした房総半島全体に甚大な被害をもたらしました。90歳を超えるお年寄りが生まれて初めて経験したという凄まじい被害で、鋸南町では約3,600戸中約2300戸、6割以上の家屋が被害を受けたと言われます。一部では今回の台風を東京湾台風と呼ぼうという動きもあるそうです。 しかし東京湾台風と呼ばれている台風…
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平群天神社と大正デモクラシーの息吹

平久里の平群天神社へ行ってきました。 富楽里から山を越えて房総を東西に横切る県道89号線と、南北に縦走する県道88号線の交差点付近に存在する平久里地区の鎮守です。 前にも書きましたが、交差点の名前は「平久里」で小学校は「平群」でどちらが正しいということも無いようですが、神社は「平群」の漢字を使っていました。 (どちらも…
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大六妙顕寺と感動の忠魂碑

先日記事をUpした大六の奥にあるトンネル(橋)ですが、大六地区の舗装路の最奥、未舗装区間との境に妙顕寺という小さなお寺があります。 住宅地の奥に階段があり、そこが妙顕寺です。 上ってみると何とも慎ましいお寺がポツンと建っていました。 大崩の神社ももっと立派だったので意外でしたが、大六の最奥ということで、開墾されたの…
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木の根峠の道を辿る

先日、南無谷岬の集落探訪で記事を連続してUpしました。その中で内房の幹線である国道127号線の歴史についても触れてきました。 江戸時代、険しい南無谷岬を内陸に大きく迂回していた房総往還(国道127号線のルーツ)ですが、近道として険しい木の根峠を超える道が使われていました。この地図の一番右側のルートになります。安房を領した里見氏…
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南無谷岬の道を考える

南無谷岬の集落を歩いてみて、この地域の交通事情について調べてみました。 現在、房総半島の東京湾側を木更津から館山に向けて結んでいる国道127号線。この道は古代から延々と利用されてきた幹線ですが、当然ながら時代ごとにルートの移り変わりがありました。 こちらの地図は明治19年に作成された迅速測図です。何度か歴史関係の記事で利用さ…
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南無谷岬の探検記2 -石小浦編-

小浜から素掘りのトンネルを通って隣の石小浦の集落に出ました。この小浜と石小浦を結ぶのは小浜トンネル。 国道127号線にも小浜トンネルがありますが、素掘りの小浜トンネルは今のトンネルが出来る前の旧道に当たります。完成したのは明治31年という驚きの古さです。 石小浦の集落は小浜に似て、狭い谷間に密集して家屋が並び、その先に砂…
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南無谷岬の探検記1 -小浜と震洋格納庫編-

内房の海岸線を南北に縦走する国道127号線。鋸山のある明鐘岬を過ぎて保田、勝山、岩井と続きます。 岩井から先は富浦を経て館山市の船形に入ります。南房総市が出来る前は鋸南町(保田、勝山)、富山町(岩井、平久里)、富浦町という区分になっていました。 岩井と富浦の間には南無谷岬、富浦と船形の間には大房岬があって、これが自然の境界を…
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東京湾要塞の大房崎砲台を見る

大房崎自然公園の記事は既にUpしましたので、今回は大房崎にあった東京湾要塞の砲台を解説します。 現地では案内板が一応ありますが、大房崎砲台自体がどういう構成になっていたのが掴みづらかったのです。帰宅してから南房総地域の戦争遺跡をまとめた小冊子を取出し、そこにあった大房崎砲台の地図がこちらになります。 大房崎砲台は切り立っ…
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知恩院と桜花カタパルト ~本土決戦に備えて~

これまで何度か南房総と戦闘との関連の記事をUpしてきました。 房総の戦争遺跡を見て行く中で気になっていた場所へ行ってきました。 道の駅鄙の里三芳村の近くにある知恩院というお寺です。 三芳には本土決戦に備えて建設された人間爆弾桜花の発進基地があり、そこにあった発進用カタパルトが今も保存されているとのこと。 知恩院は房総…
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白砂青松の勝山海岸を守った人の話

佐久間川沿いを散歩している時に顕彰碑を見つけました。 神社などならともかく、こんな住宅街にポツンと顕彰碑があるなんで珍しいなと思って読んでみました。 書き出しは「小藤田翁碑」。小藤田伊助という戦前の勝山町長の功績を伝えるものでした。 全文を撮ってはいないので、読み取った内容を要約します。 小藤田町長は国有…
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鋸南町の戦争~本土決戦と南房総③~

前回までに本土決戦に備えた東京湾兵団の防衛計画を見てきました。 南房総一帯を守備する東京湾兵団は館山を中心とした防御態勢を構築していましたので、鋸南町は兵団の後方基地といった位置にあります。 実際、東京湾兵団の補給計画では食料品は勝山から各地に輸送され、医療品については館山に直接輸送する計画でした。 勝山が補給基地とな…
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鋸南町の戦争~本土決戦と南房総②~

昭和20年の3月10日には東京大空襲があり、沖縄戦も始まり、いよいよ本土の危機が増してきた4月8日、東京湾守備兵団が編成され、担当地域内の全陸軍部隊に対する指揮権が東京湾要塞司令官に与えられました。 東京湾守備兵団には5月6日に茂原に展開していた歩兵第147師団から歩兵第427連隊が編入されました。 6月19日、いよいよ本土…
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鋸南町の戦争~本土決戦と南房総①~

以前、この世界の片隅にin勝山という記事を2回にわたってUpして鋸南町の戦争被害について記しました。 鋸南町は東京湾の入り口の浦賀水道に面しているという関係上、帝都東京を外国の侵略から守る重要な位置にあります。 ペリーの黒船に江戸湾奥深くまで侵入されて日本中がパニックになったトラウマが明治政府、そして軍関係者には強烈に刻まれ…
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黒船に備えた江戸湾の護り 竹岡砲台

百首城のある城山の隣には竹岡の町が広がっており、山と町の間には白狐川の河口があります。河口から見上げる城山の高さと迫力はなかなかのものです。 富津岬と観音崎の間が東京湾の最も狭い部分で、ここに人工島を作って砲台を設置するというのが幕府の江戸防衛プランでしたが資金不足で断念。代わって作られたのが品川のお台場です。 人工…
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この世界の片隅でin勝山2

鋸南町報には空襲被害についても詳しく載っています。町報にはフルネームでしたが、ここではイニシャルに代えて引用します。 昭和19年12月3日、B-29 70機が中島飛行機工場を爆撃し、帰路途中に焼夷弾を落下、小保田Iさん方他4世帯が類焼、大帷子のIさんの方へ焼夷弾の殻が落ち、主屋の瓦をぶち貫き、座敷のこたつの上で止まりました。 …
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この世界の片隅でin勝山

ここ何回か「鋸南町の知られざる戦時下の実態」というタイトルで鋸南町報に記事が連載されています。昨年公開されて話題になった映画「この世界の片隅に」の世界だなあと感じて非常に印象的でした。 戦争被害を描いた映画はこれまでも沢山ありました。原爆にしろ空襲にしろ、あまりにも現実生活とかけ離れていて、リアルを感じ取れないところがあったのです…
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勝山の竜宮城と展望エレベーター

佐久間川河口付近の大黒岩の麓は民宿などが立ち並ぶエリアになっています。特にリニューアルして展望露天風呂の宿として宣伝している「おしなや」が目を引きます。 佐久間川河口の静かな川面と海岸との組み合わせは美しく、それを眺めながらの露天風呂は最高でしょうね。 みささぎ島の灯篭流しもこの辺りで行われます。 現在はこのように…
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幕府遊撃隊の戦い

慶応4年(1868年)3月に西郷隆盛と勝海舟の交渉によって江戸城の無血開城がおこなわれました。 4月11日に徳川慶喜が水戸へ移り、これに不満の榎本武揚は旧幕府艦隊を率いて館山に逃れます。勝海舟は旧幕府軍と新政府軍との衝突を回避する為に説得を行い、艦隊は一旦品川に戻りますが、その後8月19日に奥州、そして蝦夷へと移って新政府軍との戦…
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五島慶太の別荘「大正庵」

大六漁港の前、亀ヶ崎にある大正庵です。 綺麗な日本家屋で誰かの別荘なのでしょうが、あまり人気も無く不思議な建物だなあと思っていたのですが、なんと地元の鋸南不動産に売り出し中の記事が出ていました(笑) 東急電鉄の創始者 五島慶太 が、大正天皇の生母の実家「柳原家」を京都から移築したとされる由緒ある古民家別荘”大正庵 ”…
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房総の鉄道網発達史

房総半島の鉄道網の地図です。赤線が明治、緑線が大正、青線が昭和の開通となります。 こうしてみると北側の鉄道網整備が優先されたことが分かります。南房総に鉄道が来たのは大正期です。夏目漱石が最初に保田に海水浴に来たときは東京湾を船旅でした。 (安房勝山駅の開設が大正6年) 明治時代は東京からの定期航路があったので、海上交通…
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安房の教育者 野呂道庵の話

加地山神社にあった野呂道庵について検索してみると鋸南町報のアーカイブがありました。 どうも見てみるとリンク切れなどもあって、そのうち消えてしまうかもしれないので転載します。鋸南町のHP(http://www.town.kyonan.chiba.jp/kyonan/)には鋸南町報のバックナンバーがPDFファイルでありますが、2013…
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海水浴の始まり 明治大正のリゾートブーム

日本の海水浴の発祥は明治18年に松本順が大磯で海水浴を始めたという説と、明治22年の夏目漱石が保田を訪れたのを始めとする説の2つがあるようです。 いずれにしても明治20年代から海水浴という文化が始まっていくという事になります。 明治28年にはアメリカの海水浴場設置マニュアルが紹介され、救難用のロープや部位によって郵政区画を定…
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東京湾の海上交通

戦前の東京湾海上交通の中心となったのは明治22年設立の東京灣汽船會社です。この会社は現在、伊豆諸島への定期航路を運航している東海汽船です。 この会社は4本の定期航路を運航していましたが、明治37年時点の就航隻数と年間旅客数は以下のようになっています。 ①東京~千葉 1隻18,000人 ②東京~木更津 2隻46,000人 …
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戦前の南房総地域の発展度合

大学時代に東京湾海上交通について調べたことがあります。当時所属していた歴史研究サークルの発表テーマでした。 明治43年の人口統計(『千葉県統計書』)では安房郡の人口は57,060人となっています。 現在の鋸南町に相当するのは勝山町、保田町、佐久間村の3つです。 当時の人口は勝山町が5,632人、保田町が2,81…
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