房総捕鯨の祖 醍醐新兵衛の墓

勝山は房総半島における捕鯨のルーツです

江戸時代、初代醍醐新兵衛によって始められた捕鯨はより南へ拠点を移し、現在は和田浦が日本で4か所、房総半島で唯一の捕鯨基地となっています。

和田浦の捕鯨については以前に道の駅「和田浦WA・O!」で記事にしました。

あちらでは捕鯨の歴史についての資料館が無料公開されていましたが、そこには勝山の醍醐新兵衛が房総捕鯨のルーツであること勝山にある鯨塚が日本最大の規模であることが記されていました。

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その房総捕鯨の祖である醍醐新兵衛の墓は大黒岩の中腹にあります。

お墓の付近には説明板も設置されていますので、それを引用します。


房総捕鯨の祖、醍醐新兵衛定明は、寛永7年(1630)勝山に生まれました。醍醐家の出自については諸説ありますが、里見氏時代の末には勝山にあって、浜名主としての地位にあったようです。

定明は漁師たちをまとめ、計57隻にも及ぶ大組、新組、岩井袋という世襲制の鯨組を組織し、夏場、勝山沖に回遊してくるツチクジラを集団で仕留める捕鯨業を始めました。

名主として村を指導する一方、妙典寺浄蓮寺の再興に貢献した篤信家だった定明は、宝永元年(1704)に亡くなり、仁浜浦を一望できるここ大黒山の中腹に葬られました。

以後、醍醐家は代々新兵衛を名乗り、鯨組の元締として、また勝山村の名主として村の発展に尽くし、江戸時代を通じて勝山は捕鯨の里として栄えました。

勝山藩からは苗字帯刀を許され、藩領の大名主にも選任されています。

また幕末には8代定嗣、9代定固は勝山藩と連携し、幕命により蝦夷へ渡り、北海道、樺太に漁場を開き、北洋漁場開拓に貢献

明治になって10代徳太郎は小笠原伊豆大島洋上に洋式捕鯨を展開しましたが、明治以降の不漁により勝山の捕鯨は終わりを告げました。

初代醍醐新兵衛定明の墓の脇に江戸時代の狂歌師蜀山人(太田南畝)の狂歌碑が建てられています。

いさなとる 安房の浜辺は 魚偏に 京という字の 都なるらん

いさなとは鯨のこと。文化2年(1805)、蜀山人が勝山の醍醐家の繁栄ぶりを詠んだ狂歌です。



勝山の捕鯨は里見水軍の末裔が平和な時代になって始めた転職先でした。集団での連携プレーに長けた彼らにとって、捕鯨は自分たちの長所を存分に生かせるものだったに違いありません。

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捕鯨の祖である醍醐新兵衛は勝山の歴史に重要な影響を与えた郷土の英雄で、鋸南町の制定したイメージキャラクターしんべいくんに菱川師宣の見返りちゃんと共に連なっています。


明治以降、勝山の捕鯨が衰退するのは幕末にアメリカをはじめとした欧米各国の乱獲によってクジラの数が激減したためが、里見水軍から捕鯨へと変わっていく歴史の中で受け継がれた勝山の漁師の気風というものは現在までも伝えられると言えそうです。

勝山の漁船は現在でも太平洋のかなり遠くまで乗り出していって漁をしています。保田の漁師は水平線の内側の近海で漁をするのに対し、勝山の漁師は水平線の向こう側まで乗り出していくという話を以前教えてもらったことがあります。

こういうのはやはり受け継がれた勇敢さとか冒険心のたまものであろうと思う訳です。





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