この世界の片隅でin勝山2

鋸南町報には空襲被害についても詳しく載っています。町報にはフルネームでしたが、ここではイニシャルに代えて引用します。

昭和19年12月3日、B-29 70機が中島飛行機工場を爆撃し、帰路途中に焼夷弾を落下、小保田Iさん方他4世帯が類焼大帷子のIさんの方へ焼夷弾の殻が落ち、主屋の瓦をぶち貫き、座敷のこたつの上で止まりました

同日、小保田のKさんは仕事帰りに小向橋のところで遭難、小型爆弾が炸裂し破片が尻に突き刺さり、館山病院に入院して破片を摘出したのです。県下で戦傷者一号だったので、県知事から見舞金が出されました。

同20年1月9日、B-29が佐久間赤伏、中尾原、川崎、座古田、榎戸、堂面、小萩の田園に爆弾を投下。その1個が川崎のKさんの屋敷畑に落下し、爆風で戸障子が飛ばされ、土が家の中を埋め尽くしたのです。

爆発した後は深さ4メートル直径8メートルの擂鉢状の穴があきました。小萩に投下された爆弾は不発で、佐久間ダム工事の折、自衛隊により処理されたのです。

東京大空襲のあったのは昭和20年3月10日、翌11日保田本郷のKさん方と元名のKさん方で焼夷カードが発火、隣組の人たちの必死の消防活動で何とか消火しました。




昭和20年5月8日、11時55分に勝山駅を出発した列車が市部瀬でアメリカ軍のP-51戦闘機3機に銃撃され死者13名、負傷者46名という大惨事になりました。

この事件は当時勝山に疎開していた親戚のおじさんも覚えていて、「東京の空襲で焼け出された被災者を乗せた列車が銃撃されて、急いでトンネルに逃げ込もうとしたんだけれど、既に別の列車がトンネル内に止まっていて立ち往生してしまい、どうにもならなくなったところを銃撃されたんだ。一面血の海で「大変だ」と雨戸を外して担架にして町中総出で助け出したんだ。あれは酷かった」と語ってくれました。
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惨事の現場となったのは勝山~岩井の中間付近で、ちょうど道端屋の裏手に祈念碑が建立されています。


同時にAさん宅も銃撃を受け、母屋・厩・倉の3棟が焼失。田んぼで作業していた人たちは生きた心地がしなかったと語っています。

勝山小学校も銃撃されましたが、幸い子供たちは既に下校しており、職員は布団や洗面器をかぶって身を守り無事でした。学校やその周辺には敵機の撃った機関銃の薬莢が散乱していたそうです。


この時期は沖縄の激戦が繰り広げられており、5月3日に沖縄守備隊である第32軍は米軍に対する総攻撃を開始

これに呼応して日本軍は航空機449機(うち特攻機160機)を投入する菊水五号作戦を開始して駆逐艦4、揚陸艦3の7隻撃沈、戦艦1隻 正規空母3隻 護衛空母1隻 軽巡洋艦1隻 水上機母艦1隻 駆逐艦11隻 掃海艇1隻 中型揚陸艦1隻 上陸支援艇2隻 測量船1隻 輸送艦2隻の合計25隻撃破という戦果を挙げています。

この猛烈な特攻攻撃に対応するため、B-29の爆撃隊は沖縄作戦支援のために九州方面へ攻撃を行っており、公式戦史である戦史叢書には関東地区への敵機来襲の記録は載っていません。



いろいろ調べたところ1995年の房日新聞の記事(http://bunka-isan.awa.jp/About/item.htm?iid=225&TXSID=gqket9pa3ulp3mk9n8bq353p74)に以下のような記述があり、これが全容かと思われます。


5月8日、ムスタングP51・65機が千葉、茨城を急襲した。11時50分頃、鋸南町市部瀬(勝山駅-岩井駅間)において館山行下り第111列車が、P51二機により機銃掃射をうけ、乗客13名が死亡、46名が負傷し、列車も破壊された。

また西崎村沖合いでも漁船が攻撃をうけ3名が負傷している。



こちらのブログに千葉市への本格空襲の1回目として5月8日の日立航空機千葉工場(現:JFEスチール東日本製鉄所・千葉工場)を標的とした空襲が紹介されていました。
https://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/08889b0b34141c1ae43e28a32436c51d


また、こちらのサイトではこの日の空襲によって1機のP-51戦闘機が撃墜されたことが記録されています。

POW研究会:http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html

1945年5月8日午前10時頃 千葉県館山市館山海軍飛行場
P51(第15戦闘機群45中隊所属)が墜落。
 館山基地を攻撃中に、対空砲火を受けて滑走路脇に墜落して仰向けになったが、炎上はしなかった。
 Roy F.ZALESKY少尉が死亡。遺体は翌日、箱に納めて館山湾に水葬された。また、飛行機の残骸や遺品は地元の小学校に陳列して市民に公開された。



P-51はアメリカ陸軍の戦闘機で、映画「硫黄島からの手紙」の舞台となった硫黄島の戦いの大激戦の後に、同島の飛行場に進出してサイパンから出撃するB-29の護衛任務を行っていました。

この日の空襲は護衛戦闘機であるP-51単独で行われていますので、目的は日本軍戦闘機隊の戦力を削ぐことが第一、日本軍が迎撃に出てこない場合は地上目標に対する機銃掃射や対地ロケット弾による攻撃を行うという感じだったのではないかと思います

しかし日本軍も沖縄での決戦に戦力を集中しており、近衛飛行隊と呼ばれて帝都防空の要であった調布の飛行244戦隊は特攻機支援のため鹿児島の知覧へ移動、海軍の帝都防空の主力であった三○二航空隊(厚木航空隊)も戦力の一部を鹿児島の鹿屋へ進出させています。

B-29を伴わない攻撃に対しては戦力を温存して迎撃しないという方針だったのではないでしょうか?



7月18日にはP-51とB-29、延1,200機が関東全域に波状攻撃をかけ、市井原に爆弾が落下。爆風で杉畑がなぎ倒され、立木の葉には泥が飛び散って深さ20メートル、直径10メートルの大穴があいていました。

同じく市井原のAさん方に機銃掃射があり、銃弾は茅葺屋根を貫いて仏壇の前に着弾して発火し、畳から煙が出たところを消し止め大事にはいたりませんでした。

横根のAさんも外で牛の世話をしていた時、キーンという金属音がして6~7機の敵機が超低空で飛来するのを発見。とっさに逃げ出して難を逃れましたが、家に帰ってみると庭先の土がえぐられ、玄関の戸口に2か所弾が突き刺さり、座敷の梁にも1発突き刺さっていたそうです

同じ横根のKさんも庭先で仕事中にP-51が飛来して銃撃され、弾はそれて柱に当たったのですが、それが跳ね返って腕に当たり、しばらく通院治療を受けました。

他にも奥山で機銃掃射を受けましたが、こちらは幸い被害が無かったとのこと。

田舎町で重要な軍事施設があるわけでもないので、何らかの不具合で投下できなかった爆弾を投棄したとか、そういう感じだと思います。


それよりも戦闘機による機銃掃射は恐ろしいですね。それ以前はサイパンからのB-29が戦闘機の護衛なしに来襲し、それを日本軍戦闘機隊が必死に迎撃していましたが、4月以降はP-51の護衛が付いて迎撃が一層困難になりました

燃料事情も逼迫し、本土決戦に備えて戦力を温存するという方針もあり、戦う相手のいないアメリカ軍は地上の動くものすべてを銃撃するようになっていきます。

都市に比べて比較的安全で疎開先にもなっていた田舎町でも直接戦争の脅威にさらされるようになり、本当に怖い時代だったと思います。

こうした日常生活の中に戦争という非日常が入り込んでくる記述に「この世界の片隅に」を思わず連想して今回の記事を書くことにしました。


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