関東の戦国-1-享徳の乱

戦国時代、房総半島には里見氏という一大勢力が存在し、関東の覇者である北条氏と激しい戦いを繰り広げていました。そのため存在自体は知っていたのですが、里見氏がどのようにして勢力を伸ばしていったのかについてはよく知りませんでした。

これから何回かに分けて関東の戦国時代を纏めていきたいと思います。


室町幕府を開いた足利尊氏下野国の足利を拠点としていた鎌倉幕府の有力御家人でした。それが南北朝の動乱を経て孫の足利義満の時代に戦乱を治めて日本の支配者となります。

室町幕府は東国の支配を重視して前の時代に幕府があった鎌倉に将軍に匹敵する権限を持つ鎌倉公方を設置します。全国規模で大軍が東奔西走する南北朝の動乱、京の都にあって南朝との戦いにかかりっきりの将軍とは別に、独自に重要拠点の関東を押さえる関東方面軍が必要だったということなのだと思います。

ただ、将軍に匹敵する強力な権限を持つ鎌倉公方はしばしば京の幕府と対立します。
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永享10年(1438年)、鎌倉公方足利持氏と、鎌倉公方を補佐する関東管領である上杉憲実の争いが勃発。これが永享の乱です。

6代将軍足利義教関東管領上杉氏を助け、鎌倉公方は滅亡。関東は上杉氏を介して幕府の直接支配下にはいります。

しかしこれを良しとしない持氏の残党や下総の結城氏が2年後の永享12年(1440年)、持氏の遺児を担いで挙兵。これが結城合戦と呼ばれる戦いです。

この戦いも幕府・上杉軍の勝利で幕を閉じます。

翌年、嘉吉元年(1441年)に強権的な政治を行って幕府を指導していた6代将軍足利義教が暗殺。(嘉吉の乱
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8年後の文安6年(1449年)、義教の息子である足利義政が8代将軍に就任します。

足利義政は大河ドラマ「花の乱」で市川団十郎が演じていました。個人的には大好きな作品なのですが、応仁の乱という暗くてマイナーな題材故に長らく大河ドラマ史上最低低視聴率の座をキープしていたという・・・。

その中で就任したばかりの義政の「自分は(強権政治を行った)父の悪行を償いたいのだ。奪ったものは返してやり、元の姿に戻したいのだ」というセリフが印象的でした。

そして実際、義政はその通りに行動します。即ち、将軍就任のその年に鎌倉府が再興され、鎌倉公方には生き残った持氏の遺児である足利成氏が就きます。

これを補佐する関東管領には持氏と戦った(=成氏にとっては親の仇)である上杉憲実の嫡男、上杉憲忠が就任。

関東の政治状況は永享の乱以前に戻ります。同時に対立の火種も復活します。

宝徳2年(1450年)、山内上杉家の家宰である長尾景仲、扇谷上杉家の家宰太田資清(太田道灌の父)が公方成氏を襲撃し、江ノ島合戦が勃発します。

これは上杉憲忠の知らないところで起こった事件ですが、これにより鎌倉公方と関東管領の関係は後戻りができなくなります。

享徳3年(1455年)の年の暮、鎌倉公方・足利成氏は、関東管領・上杉憲忠を御所に呼び出して謀殺、上杉討伐の兵を挙げました

応仁の乱の先んじて関東に戦国時代を呼び込み、28年も続いた享徳の乱の始まりです。
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この当時、上杉一族は本家である山内上杉家の上野を中心に、越後、武蔵、相模、安房、伊豆の守護という巨大な勢力を持っていました。

これを打倒するべく鎌倉の御所で当主を誅殺した足利成氏は混乱する上杉家が体勢を立て直す前に滅ぼすべく、翌1月に鎌倉を出陣します。

これに対し上杉家は家宰長尾景仲を中心に兵を集めて戦いを挑みますが、分倍河原の戦いで大敗。一族の有力な武将を失い、長尾景仲は常陸の小栗城に逃れます。

成氏はこれを追撃して下総古河へ進軍、小栗城は落城して長尾景仲は上野へと逃げ延びました。

しかし幕府も手をこまねいている訳ではなく、管領細川勝元の意向で3月には成氏討伐令が上杉氏一族をはじめ周辺の守護である今川範忠(駿河)・小笠原光康(信濃)・宇都宮等綱(下野)・千葉胤直(下総(前守護))にも下されました。

誅殺された上杉憲忠の後任としては、弟の上杉房顕が関東管領となります。京にいた上杉房顕は従弟の越後守護上杉房定と共に越後から関東に入り、三宮原にて上野国内の成氏勢力を破ります。

6月16日には駿河から侵入した今川範忠を主力とした幕府軍が鎌倉を陥落させました。成氏は鎌倉公方の御料所(=領地)でもあった古河を新たな拠点として徹底抗戦の構えです。これによって鎌倉公方は古河公方を呼称を改めました

下総の千葉氏では成氏に通じた分家の馬加康胤と重臣の原胤房が挙兵して本家の千葉胤直・胤宣父子を倒して家督を奪い、古河公方の味方となりました。

次いで康正2年(1456年)、足利成氏の攻撃で下野の宇都宮氏が降伏して古河公方陣営に入ります。更に上総へは武田信長、安房へは里見義実が派遣されて古河公方側に入ります。
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こうして関東を東西真っ二つに分けて古河公方vs関東管領&幕府という対立構造が確立しました。

両軍の境界線は関東の中央を流れる利根川(当時の利根川は東京湾に注いでいた)。上杉軍は江戸城、蕨城、忍城、岩附城といった利根川沿いの拠点を整備していきます。

幕府は成氏打倒のため、新たな鎌倉公方として将軍義政が還俗させた異母兄の政知を関東へ下向させます。しかし政知は関東地方在住の武士たちの支持・協力を得られず伊豆の堀越に入り、堀越公方と称して関東に入る事は出来ませんでした。

続いて信濃守護小笠原、そして京都からは三管領の一角である斯波義敏軍を向かわせ一気に決着をつけるべく出陣させます。

しかし小笠原家は内紛のために出陣できず総大将の斯波義敏も自分の領国越前に勝手に出兵(長禄合戦)して任務放棄したために関東に援軍を送れませんでした。

室町幕府は大名たちを支配することが既にこんなになっていることを象徴するような出来事です。

長禄3年(1459年)、幕府の援軍が無い中、単独で成氏との決戦に臨んだ関東管領上杉房顕が太田庄の戦いで大敗。以後、両陣営は付近の五十子陣を挟んで長期にわたって睨み合うことになります。(五十子の戦い

文正元年(1466年)、関東管領上杉房顕が急死し、新たな関東管領に上杉顕定が就任します。

そして翌文正2年(1467年)京で応仁の乱が勃発し、10年間の大乱、そして戦国時代の幕が上がります。

関東では上杉氏と成氏の戦いが延々と続きますが、文明8年(1476年)上杉家で長尾景春が反乱を起こし、五十子の陣が崩壊。上杉軍が自滅する格好になります。

大混乱の上杉氏を立て直したのが分家である扇谷上杉家の家宰太田道灌です。本家である山内上杉家の陰に隠れていた扇谷上杉家が、ここから存在感を大きくしていきます

文明10年(1478年)、関東管領上杉顕定と古河公方足利成氏の間で和睦が成立し、28年続いた関東の大乱、享徳の乱は終結します。京で10年続いた応仁の乱も前年に終結しており、とりあえず一時の平和が訪れます。

和睦によって足利成氏古河公方として引き続き関東を統治する一方、伊豆については幕府から派遣された堀越公方足利政知が統治することになりました。

享徳の乱によって、以後関東は山内上杉家、古河公方、そして乱の終盤に存在感を見せた扇谷上杉家の3大勢力の争いが繰り返されることになります。そしてその戦乱の中から新時代の戦国大名が台頭してくることになるのです。(続く)
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