鋸南町の形成 近代編①

外出自粛の中ではじめた鋸南町の形成シリーズ、最後の近代編と思いましたが、思った以上に長くなってしまったので2回に分けます。今回はパート①です。

鋸南町に近代の訪れを告げたのは嘉永6年(1853年)のペリー来航です。東京湾フェリー久里浜~金谷間で運行されていますが、ペリーが来航した浦賀は久里浜の隣にあります。(上陸したのは久里浜)

久里浜にある火力発電所の特徴的な3本煙突は東京湾を隔てて鋸南町の目の前にあります。勝山、保田の海岸からは浦賀沖に来航した4隻の黒船がよく見えたことでしょう

江戸・東京と世界が結ばれたことによって貿易が盛んになり、今日の日本の繁栄がもたらされたことは間違いありません。一方で、外国からの侵略という脅威が生まれたということでもあります。

黒船から撃ち放たれる大砲の恐ろしさ、これに対応する為に江戸湾入口に位置する三浦半島、房総半島の沿岸には砲台が築かれ軍事的に重要な地域となりました。
明治になって東京湾要塞が建設され、1945年の敗戦まで首都東京を守る役割を果たしますが、その一翼を鋸南町は担っていたのです。

戦後はアメリカと同盟したことで外国の軍艦が東京を襲う事態は考えにくくなっていますが、現在でも館山、木更津、横須賀にある自衛隊の基地はその役割を引き継いでいるといえます。
大国として力を付けてきた中国が数年前に「太平洋の東西をアメリカと中国で分割しよう」なんて言ってましたから、何十年か後に中国の侵略に備えて東京湾要塞パート2みたいなものが出来る時代が来るかもしれません

鋸南町.png
それはともかく、幕末の鋸南町は江戸防衛の最前線となりました。白河藩主松平定信によって内房沿岸に砲台が築かれ、このとき百首村が竹岡と改名されていたりしています。この竹岡の砲台跡は以前探検したことがあります。
黒船に備えた江戸湾の護り 竹岡砲台

こうした防備体制を自分の目で確かめようと、吉田松陰が鋸南町を含めた内房地域を巡る旅をしたことも記録されています。そして天領や旗本領が細切れで分散していた保田、佐久間エリアが、江戸湾防備を命ぜられた忍藩、次いで会津藩に一括して与えられます。この辺りの経緯は会津藩の幕末を描いた大河ドラマ「八重の桜」にも描かれていたと思います。

個人的な話ですが、私のルーツは会津藩士でありまして、こういう所に微かな縁があるというのは嬉しい話です。当時、会津藩領となったのは中佐久間、上佐久間、奥山、大崩、横根、市井原、小保田、江月、大帷子、本郷、元名、吉浜、大六で、勝山藩及び分家の酒井氏の治める勝山、竜島、下佐久間、岩井袋以外は全てということになります。

会津藩の当地の後、山間部が前橋藩、沿岸部は備前藩の管轄となったり、備前藩から天領となったりして細かく変わっていきます。


幕末の動乱が鋸南町に訪れたのは慶応4年(1868年)、官軍に江戸城明け渡しが行われました。これに不満を持つ幕府遊撃隊の一部が木更津から館山まで南下しつつ兵を集めた後、船で小田原に渡り、箱根で官軍と激戦を繰り広げます。
これについては別に記事にしていますが、勝山藩からも31名が遊撃隊に加わり、戦死16名、戦傷10名、行方不明2名、そして賊軍に加わった責を負って2名が切腹する悲劇が生まれました
幕府遊撃隊の戦い

次回は明治維新後の各村の歩みから、勝山町、保田町、佐久間村の成立、そして戦後の鋸南町成立まで一気に行きたいと思います。



鋸南町は現在、台風15号により町全体が大きな被害を受けています。
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ふるさと納税:令和元年台風15号 千葉県鋸南町



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