東京湾の海上交通

戦前の東京湾海上交通の中心となったのは明治22年設立の東京灣汽船會社です。この会社は現在、伊豆諸島への定期航路を運航している東海汽船です。

この会社は4本の定期航路を運航していましたが、明治37年時点の就航隻数と年間旅客数は以下のようになっています。





①東京~千葉 1隻18,000人
②東京~木更津 2隻46,000人
③東京~勝浦 3隻8,000人
④東京~房総沿岸~横須賀  13隻258,000人

一見して④が最大の収益源であることが分かります。明治20年代辺りから海水浴が盛んになり、観光客が東京からたくさん訪れるようになったことが背景にあります。

大正7年に国民新聞東京湾八景を公募する企画を立てたところ、1位が金谷、2位が保田という結果で、ほかにも上総湊佐貫も入選したとのことです。

ちなみに④の房州航路は以下のようなルートで運航されていました。

東京小久保(大貫村)~竹岡金谷保田勝山富浦船形那古北条館山横須賀浦賀

もともと定期航路は貨物がメインで旅客はサブという扱いだったのが、海水浴客の需要が高まったことで明治29年には150トン級の新造船が2隻(客室付!)が房州航路に就航します。(それまでは100トン級の船なので1.5倍!

大正時代には現在の内房線が開通して鉄道に旅客が移行していきますが、それでも300トン級の新造船3隻が投入されるなど海上交通も依然として重視されています。

更に昭和4年からは東京保田間で海水浴専門の航路が開設されます。

貨物船ではなく純粋な客船による東京湾横断航路は初の試みでした。
画像

戦後も東海汽船による東京湾航路の運営は続き、昭和10年に就航して東京湾の女王と呼ばれた橘丸勝山竜島港に寄港しています。

この橘丸は1,772トンで300トン級が往来していた当時は、まさに東京湾の女王だったのでしょう。

橘丸については戦争中に徴用されて沈没し、引き上げられてからも南方で病院船として活動するなど活躍していたようで、ウィキペディアにも載っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E4%B8%B8

ちなみに現在就航している東京湾横断フェリーかなや丸しらはま丸は3,500トン、橘丸の約2倍の大きさです。




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